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スティーブ・ジョブズ 人を動かす神ーなぜ、人は彼に心を奪われるのか? (リュウ・ブックス アステ新書)
スティーブ・ジョブズ 人を動かす神ーなぜ、人は彼に心を奪われるのか? (リュウ・ブックス アステ新書) (JUGEMレビュー »)
竹内一正
良くも悪くも、飛び抜けているからこそ頂点を極められる。妥協の無い姿勢には尊敬を通り越して、畏怖さえ覚える。そこがスティーブ・ジョブズのスゴイ処だ。ただ、個人的にはあまり友達になりたくないかも。
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外国人が日本のテレビ番組をつまらないと思うワケ

 外国人が日本のテレビ番組をつまらないと思うワケ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1009791&media_id=34&m=2&ref=news%3Aright%3Anoteworthy

今回の話題は配信でも若干触れているけれど、まだTVについての捉え方は相変わらず
ということで、もう少し掘り下げてみようと思う。

この記事でも言っていることだが、結局は予定調和の中で満足しているという構図を
良しとしてしまったところに問題はある。
視聴者が、既知のタレントを見るのを安心しているというが、これは毎日同じメニューの
食事をしているのに似ていないか。新しいメニューに挑戦して失敗するよりは、知っている
味を食べていた方がいいという、消極的な自己保身なのかも。

確かに知っているものは安心するというのはあるだろうが、挑戦を良しとする気持ちが
無ければ新しい刺激には出会えない。たとえ失敗してもそれは新しい経験という蓄積
になって、自己の価値観を広げてくれるものになるはずである。

どうも失敗は悪いことという根本意識が日本に蔓延してしまったのではないだろうか。
考えてみれば、幼い頃より受験は失敗出来ない、失敗すると落伍者になるという
強迫観念から抜け出せない世代が大半を占めてしまった世の中である。
チャレンジすることを賞賛する文化であったなら、こうはならなかったかもしれない。
残念ながら日本という国民の総意識には超保守的感覚が基本にあると思われる。

ただ、この未曾有の不況に於いて誰もが不安を覚え、保身に走るのは否めない。
けれども、世の中がドラスティックに変化していく過程では、今までの既得権益に
しがみついている勢力が駆逐されて、新しい秩序が生まれるというのが歴史の
証明するところである。

変革というのは常に若い世代から起こる。
その意味では、若い世代がTVを見なくなったという風潮はその予兆であると言える。
新しいものを提供していくメディアのオピニオンリーダーとしてあったTVの情報が、
いまや情報としては一番最後の3次、4次情報でしかないという事に気づいた世代が
離れていくのは当然の事だ。

それと同時に、新しいものを取得する価値観が大事であるという事を、視聴者に啓蒙して
来なかったメディアの自滅というのが現状である。

これは、経済的に見ても行き詰まるのは当然で、結局のところ資本主義経済の中では
新しいものを供給し続けなければならない。
今までのもので満足するというのは、経済も停滞するということと一緒だ。
では、どうすれば新しいものに興味を持ち、それを取得しようという気持ちにさせるか。
それは、知らない事を知るという価値観の向上とそれを良しとする文化水準の向上を
目指す事だろう。
日本は今、物質経済から精神経済へ移行しなければならない帰路に立たされている。
それを理解しなければ、このデフレ経済も脱却できないと思うのだ。

挑戦できないTVの構造では、ネットメディアには対抗出来なくなるだろう。
即効性という分野では、もう太刀打ちできない。
ならば、TVはもっと拘った視点での番組コンテンツの製作しかないだろう。
それこそ、それぞれのTV局が独自の視点で一つのニュースを掘り下げるというものを
作って然るべきではないだろうか。
既に、TVのニュースは公正明大とは言いがたい。建前としてしか認識できない。
実際には製作側の意図的な情報操作とも言える内容を、それぞれが流している。
であるなら、始めからそれをうたった上で、他局とは違ったものを表現してほしい。

まあ、ニュースについては事実というものが根底にあるので、憶測や希望を
入れたものが成り立つというのも問題ではあるが。

少なくとも、ドラマやバラエティなどには、まだまだ改善の余地はあるだろう。
視聴率などどいう最早旧態依然とした価値観に振り回される事無く、新しい事に
チャレンジしていただきたい。

at 19:18, chibaP, こんな世の中ナナメ斬り!

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万引き被害 年670億円 振り込め詐欺の11倍(毎日新聞)

このところ、個人的な理由により、一時活動停滞という状況でありました。

その状況もいくぶん緩和できてきたかということで、暫く滞っていたこのブログも再開
していきたいと思います。

さて、記事については一ヶ月前のこととなりますが、いまさら即効性のある話題でもなさそう
なので、この「万引き被害」というものを取り上げてみたいと思います。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091024-00000013-maip-soci

実はこの問題については、今更といった感がある。
私としては以前書店を経営していたという経緯があるだけに、実態は手にとるように解る。
既に、2000年頃以前から、万引きという行為が個人の突発的な欲求という所だけではなく、
組織的窃盗犯罪という側面が現れてきていた。
もちろん個人でも、それが転売目的としての窃盗犯罪という行為に変化してきた。

実はそれ以前に、ブックオフの台頭による古本の買取制度の変化が大きな影響を
与えてしまった事も無視できない。

万引きという言葉自体が、個人の出来心的な行為を指していた時代であれば
それは現場での当事者による話し合いで解決できた部分もあったことだろう。
しかし、現在の万引きという行為は、もはや窃盗としか言いようがないものだ。
明らかに転売して金銭に代えるという目的は、万引きという言葉のもつ意味合いとは
もはやかけ離れているとしか言えない。

このような報道は、もう10年にわたって同じ事を言っているだけなのだ。
対策を講じていると言いながら、やっていることはただ管理体制を強化
しているということだけ。

そこで言いたいのは、まず「万引き」という言葉を使うのを止める事。
メディアがいつまで経っても万引きというから、なんとなく重大な犯罪という
意識を持てなくなるのだ。
被害という事実を見れば、宝石店で10点総額100万を盗まれた、というニュース
があったとしたら、それを万引きという意識で捉えられるかどうか。
それが書店で10冊2万円の被害と言った時に、被害金額の多寡によって
犯罪の重大さが違うとでもいうのか。
利益率を考えたら、書店の2万は宝石店のそれと、それほど変わらないかも
しれないというのに。

リサイクル商売を非難するつもりは毛頭ないのだが、一度そういう流れが
出来てしまったことは、簡単には改善できないところだろう。
むやみな買取というところに規制が出来たことは認めるが、かえって
その為に量を捌く事で利益を得ようとする方向に犯罪が助長されて
しまったというのが、現状にあるのではないだろうか。

いずれにせよ、簡単に解決できる問題ではない。
まずは「万引き」という言葉を”個人の所有欲を満たす行為で行った
窃盗であり、転売するという意識を持たない行為”に限定するという
定義を提唱したい。

at 03:15, chibaP, こんな世の中ナナメ斬り!

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8月20日配信【Billboardも雑誌に見切り】 ネタの考察

 ライブ配信「花壱ちゃんネル」での一コーナー「こんな世の中ナナメ斬り!」での
ネタについて考察、第2幕。

今回の【Billboardも雑誌に見切り】というネタは、副題に -成功の方程式が通用しなく
なった米音楽業界- とあるもので、音楽雑誌と読者層の乖離による影響についてである。

しかしながら、これは音楽業界に限った事ではなく、情報を扱う紙媒体全体に於いて
言えることだ。
これは私自身が書店という現場を体感してきた中で、インターネットの台頭と共に
情報媒体としての雑誌類が淘汰されていく危機を感じていた事が現実に起こって
来たことの現れである。

それまで、あらゆる物の情報源として雑誌類(もしくは紙媒体)は不動の地位を
保ってきた。それがネットという情報源が現れたことによって、単に情報だけを
入手するという目的に絞れば、ネットの方が簡単である事に気づいた。
欲しい情報だけが必要とするなら、情報検索という手段でより簡潔に
情報を取得できる方が便利であるからだ。

その点雑誌というのは、本来の目的である情報の他に、今は全く必要では
無いであろう情報も同列に列挙してある。一冊の雑誌の中で、目的の情報を
探すには、その雑誌内でサーチするという手順が必要になるわけだ。
今まではそれが当たり前であった。

旅行雑誌を例に挙げてみると分りやすい。
目的地が決まっているなら、その土地のガイドブックを購入する。
しかし、殆んどの括りが自分の目的地よりも広範囲であるために、
全く立ち寄る事のない所の情報までその中には載っている。

はたして、ここでその要らない情報分には価値がないのか。
必要な部分だけを切り取って、その分の対価だけを支払えば事足りる、
というふうに考えるかどうか。

更に言えば、現実に起こっていた話であるが、
100円で買える求人誌を立ち読みし、自分の希望する求人の連絡先を
その場で携帯電話にメモっているというのも多々あった。
確かに、自分の求める情報だけあればいいという考えも分らなくはない。
それにしても、たかだか100円、缶コーヒーよりも安いという求人誌を
買わずに済ませるという行為はいかがなものか。

ちょっと話がそれた。
目的のハッキリした情報を取得するには、確かにネットは便利である。
検索という手段は、自分の欲求を満たす情報を最短の速度で手に入れる
事ができるツールであるのは否定できない。
しかし、雑誌の位置はもっと違う処にあったのではないか?
確かにネット検索は、知りたい情報にピンポイントで切り込んでいくことが出来る。
より深い情報を探すということに掛けては、非常に便利であるだろう。
その点で雑誌は、もっと俯瞰的な情報形態であるといえる。
一冊の雑誌は、それ自体で一つの括りであることには違いない。
しかし、そこに内包される情報は他者が選択した情報の束である。
大きな括りの中では、自分の興味外のものであったり、必要としないもの
であったりするであろうが、少なくともそれを取得選択すると言う行為は
自分自身なのだ。
つまりサーチは自分自身が行っているというところに、大きな違いがあると
思うのである。

今ここで”ひとつの括り”と言ったが、この括りの大きさ、ファジーさが雑誌の
本質だったのではないかと思う。(ファジーって言葉も無くなった気がする)
自分が求める情報を得ることは、一つの快感であり、それが括りとするならば、
自分の括りの中に居ることは楽なこととなるのだろう。

括りが小さくなればなる程、それは自分自身の自己満足になっていく。
サーチの先にはなんとなくそんな危険が孕んでいるような気がしてならない。

今は何故かカテゴリーの細分化が進んでしまい、大枠のジャンルであった
ものが、それこそ小さな括りで縛られていく。
人間は人それぞれであるから、大きな枠内で何となく違うなと感じていた
人もいたことだろう。
それが自分の欲求にマッチしたものを得る為に、より細分化したジャンルに
意味づけをしているのだとしたら、それは括りと同じことではないだろうか。

必要のない情報は、排他するという感覚であるとしたら、俯瞰で情報を扱う
雑誌は必要ないという意識になるのもうなずける。

それでも、物事を俯瞰で見る事が本当は重要なのではないだろうか。
車のハンドルに遊びがあるように、一見無駄でもそれが無いと大事に至るという
こともあるだろう。
いらないものは、排除するというのではなく、一度自分の中を通して取得選択
するという行為が、より情報を有益に使うための方法ではないだろうか。
自分自身をフィルターとすることで、自身を鍛えることができる。
無菌培養では弱くなってしまうという事と同じなのではないかと思えるのである。

雑誌と音楽業界の話であったのが、だいぶ方向がずれた気がする。
ただ、雑誌という媒体とネットという情報源は同じ情報を扱うものでも
その位置においては全く違うという事だ。
それを踏まえて、情報を取得する我々がどのように活用するかという問題でも
あると思う。
本当は、情報の価値というものを、発信者、媒体の作り手、購読者、受け取り手
それぞれが考えなければならない処に来ているのだと思うのである。


at 17:10, chibaP, こんな世の中ナナメ斬り!

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ネット配信花壱ちゃんネル、未公開ネタを考察

 本来、花壱レコードの歩みを記録するという趣旨で始めたブログであるが、
このところ、表立った活動が停滞しているということもあり、このブログ更新も
かなり散発な状況となってしまった。
 現状では、唯一花壱ちゃんネルというスティッカムでのライブ配信が、
主な活動となっているが、当初の音楽をネタにしてトークするという企画が
著作権の絡みもあり、あまり大っぴらに出来ずにいた。
 それで、日々のニュースなどから拾った話題についてトークをするという企画が
メインとなって、既に38回を迎えるまでになった。
 現在隔週というスパンでの配信であるが、なんと1年半以上が経過している。

 当初はライブ配信だけだったのを、ポッドキャストという形にしてプールした。
 これも設置してから、この9月には1年が経つ。そうしてみると、本当に一年は
早いものだと思う。
 さて、このポッドキャストはココログのポッドキャスティングJuiceというランキング
サイトに登録してあり、現在では当番組の「花壱ちゃんネル」登録者数が600を
越えたところである。
 少なくとも600人が登録のボタンを押してくれたというのは、有り難いことである。

 この数字も何かしら番組に面白みを感じていただけたという証であると、好意的に
受け止めさせていただきたい。と、そうは言っても中身がゆるゆるトークなので、
場合によってはメインの企画となるニュースネタ「こんな世の中ナナメ斬り!」が
ワンテーマしか話せていないなどの事態だったりするわけで、はたしてホントに
これで良いのかいな、とも思ってしまうのもままあったりする。

 というわけで、やっと本題。
 ネタとして取り上げたけれど、話を出来なかったテーマについて書いてみるのも
一興かな、と。
 残念ながらトークというわけではないので、私の個人的見解という立場からの発言
になってしまうところだけれど。

 (閑話休題)------------
 ただ今レス・ポール氏が死去というRSSのフラグが立った。
 あらあ、時代を席巻した偉大なギターを生み出した方がお亡くなりになってしまった。
 彼が居なかったら、Zeppelinも違ったものになってたかもしれないし、音楽全体の
 サウンドも違ったものになっていたかもしれない。
 合掌
 ------------------------------

 再開
 今回8月6日の配信で残った話題から、
「ニコニコ動画が普通のテレビ局になってしまった日」
というのを取り上げてみよう。

まず、記事の内容はというと、7月30日にニコニコ動画が12時間連続生放送配信を
行ったということ。
更に、7月30日付けの産経新聞テレビ欄に、このニコ動の番組表が載ったこと。
まあ、これは広告ということなんだろうが。

そもそも、ニコ動の存在意義がTVのアンチテーゼとするなら、こんなTV寄りの
番組内容に意味はあるのかどうか?
TVがつまらないという理由からニコ動などに流れているリスナーにとっては
TVの手法を取り入れる事は逆効果ではないのか?

このところメディア論に終始している花壱ちゃんネルトークであるので、
TVについての考察も取り入れた上で語ってみたい。
TVの衰退が、コンテンツの質の低下というのも一つの原因だろう。
不景気のせいとするのは簡単だが、スポンサーが付かないということは
予算が削減されるということ。
お金が無ければ、良いものも出来ないというのは道理で、昨今の芸人志向の
TV番組製作というのは、まったくもって予算の少なさを露呈しているとしか
言いようが無い。
本来予算が無いなら、頭を使わなければならないのが道理であるはずだが、
どうやらそのアイデアを生み出す器が枯渇してしまったのではないだろうか。
メディアもバブルの洗礼を受けたということであり、ただ単に豪華な装飾で
視聴率を上げてきた手法は終わりを告げたということだ。
もうひとつ、メディアが一方的に押し付けてきた情報に対しての疑問と
選択支の拡大による、パーソナルな楽しみ方の自由選択。
情報取得の方法はネットが普及した現在では、個人が触れる情報量は10年前の
何十倍というものになっている
TVやラジオは一方向でしかなかった訳で、先の番組表などはまさにその典型だ。
番組表を見て、リアルタイムでなければ聴取出来ない。

そこに、いつでもどこでも自分の好きな時に見られるというメディアが現れた、
というのが第一の転換となっているだろう。
更に、コンテンツに関しても、自分で選べること。また、自分も参加できる事。
このあたりがニコ動の受ける根幹であり、自らが楽しむというメディアとして
支持されていると考えられる。

ただ、コンテンツの質という部分を考えるなら、ニコ動のコンテンツがはたして
質の面でもTVを凌駕するのかというと、それはありえない。
質の良いものを作るには、やはりはかりしれない労力が必要となる。
その点はTVが培ってきた技術に勝るものは無いだろう。
だからこそ、TVはもっと質の高い十分練りつくされたコンテンツで勝負すべき
だし、かたやニコ動というのは、斬新なアイデアを拠り所としなければ成立しない
メディアなのではと思うのである。

at 01:57, chibaP, こんな世の中ナナメ斬り!

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