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スティーブ・ジョブズ 人を動かす神ーなぜ、人は彼に心を奪われるのか? (リュウ・ブックス アステ新書)
スティーブ・ジョブズ 人を動かす神ーなぜ、人は彼に心を奪われるのか? (リュウ・ブックス アステ新書) (JUGEMレビュー »)
竹内一正
良くも悪くも、飛び抜けているからこそ頂点を極められる。妥協の無い姿勢には尊敬を通り越して、畏怖さえ覚える。そこがスティーブ・ジョブズのスゴイ処だ。ただ、個人的にはあまり友達になりたくないかも。
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4月を新生活として

 今年になって初の書き込みが4月になってしまった。

もろもろの事情で、しばらくこのブログにも手をつけられていなかったが、
さすがに前回より3ヶ月以上経過していることもあり、そろそろ近況の
報告も兼ねての書き込みとしたい。

ライブ配信として「花壱ちゃんネル」を初めて2年が経過した。
既に55回目となる配信を終え、その間若干の修正を行い今年に
入ってからは音楽トーク番組改め、メディア音楽放談としての
配信内容となっている。

昨年夏頃からTwitterがなにかと話題になってからは、メディアの
全体の動向が激変している様子で、どうやらそういったメディアの
先端を追いかけているというのが自分達の興味と一致しているらしい。

そういう訳で、結局話の内容がメディア中心となっているので、そのあたりを
掘り下げていく方が、自分達にとっても面白いということだ。

ただ、そうは言っても別段そういう業界の人間というわけでもないので、
最先端事情通という程ではない。
それでも、キャズムと呼ばれる一定数に至る前には一応情報には触れている
であろうという立場から、解りやすく解説できる情報発信というスタンスでは
ないかと思う。
TV情報のちょっと先あたり、というのが位置と言えるかもしれない。

もう一つ言えるのは、さすがに2年もメディアについて追いかけてくると
それなりに事情通にはなってくるというもので、世の中の流れが何となく
感じられるような気がすることだ。
例えば、このLIVE配信にしても、2年前の当初は話題とはなっていたが
一部の流行でしかなかった。
それから1年間は、それ程発展することなく沈静化している様子だったが、
Twitterと連動しての動画配信というものが話題となってからは、加速度的に
メディアとして普及してきた。

いまやニコ動も積極的に生配信に力を入れてきているし、Ustreamも
一般レベルで話題になるところまで来ている。
体感としては、僅か半年ぐらいの間に、LIVE配信という波が押し寄せた
ように感じる。

なんでもそうだが、一度流行る兆しを見せても、社会的な基盤が整わないと
なかなか定着してはいかない。
LIVE配信にしても、当初はPCのスペックであったり、ネットワークインフラの
問題であったりで、技術的には可能でもやはりハードルは高かった。
技術革新と共に社会的なインフラも整備され、なによりそれを手軽に出来る
デバイスとソフトの登場という現象があって初めて定着する。

そのデバイスがiPhoneであり、ネットブックであり、またインフラのeモバイル
であったりWiFiであったりというもろもろだ。
特に、iPhoneは普及率以上に話題性に富み、かつモバイルの可能性を
一般に知らしめた影響は大きいと思う。

Twitterが話題となったのも、iPhoneとのセットで活用できたという部分は
少なからず影響したのではないだろうか。

そしてまたipadというデバイスの発売によって、またメディアが激しく変化
する可能性が見えている。
いよいよ、デジタルコンテンツとしての活字媒体の領域地図が書き換わるかも
しれない。
既に、キンドルという電子ブックが発売されてはいたが、日本での発売が
見送られていたために、国内ではそれほど話題にはなっていなかった。
しかし、iPadというデバイスの可能性はiPhoneによって何が出来るか
解ってしまっている。
電子ブック自体は、既に10年程前から存在していた。
当時から問題とされる部分は今と変わらなかったが、一つはハードの
普及が難しいということだ。
もちろん、コンテンツ自体の充実も必要であるが、そもそもリーダーと
してのハードの単価と性能に於いて、普及は難しいものだった。

ところが、今回のiPadについては先にハード自体が売れてしまうのは
目に見えて明らかであり、問題の一つは簡単にクリアしてしまう。
あとは、ソフトの部分さえ解決すれば、普及するのは明らかだろう。

現時点で、iPadは初回生産が間に合わず、国内の4月発売が延期され
5月以降となった。
メディアの流れから予想すると、この半年でまた劇的な変化が起こるかも
しれない。
そして、今年は電子ブック元年と呼ばれることになるかも。

at 08:34, chibaP, 花壱日誌

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外国人が日本のテレビ番組をつまらないと思うワケ

 外国人が日本のテレビ番組をつまらないと思うワケ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1009791&media_id=34&m=2&ref=news%3Aright%3Anoteworthy

今回の話題は配信でも若干触れているけれど、まだTVについての捉え方は相変わらず
ということで、もう少し掘り下げてみようと思う。

この記事でも言っていることだが、結局は予定調和の中で満足しているという構図を
良しとしてしまったところに問題はある。
視聴者が、既知のタレントを見るのを安心しているというが、これは毎日同じメニューの
食事をしているのに似ていないか。新しいメニューに挑戦して失敗するよりは、知っている
味を食べていた方がいいという、消極的な自己保身なのかも。

確かに知っているものは安心するというのはあるだろうが、挑戦を良しとする気持ちが
無ければ新しい刺激には出会えない。たとえ失敗してもそれは新しい経験という蓄積
になって、自己の価値観を広げてくれるものになるはずである。

どうも失敗は悪いことという根本意識が日本に蔓延してしまったのではないだろうか。
考えてみれば、幼い頃より受験は失敗出来ない、失敗すると落伍者になるという
強迫観念から抜け出せない世代が大半を占めてしまった世の中である。
チャレンジすることを賞賛する文化であったなら、こうはならなかったかもしれない。
残念ながら日本という国民の総意識には超保守的感覚が基本にあると思われる。

ただ、この未曾有の不況に於いて誰もが不安を覚え、保身に走るのは否めない。
けれども、世の中がドラスティックに変化していく過程では、今までの既得権益に
しがみついている勢力が駆逐されて、新しい秩序が生まれるというのが歴史の
証明するところである。

変革というのは常に若い世代から起こる。
その意味では、若い世代がTVを見なくなったという風潮はその予兆であると言える。
新しいものを提供していくメディアのオピニオンリーダーとしてあったTVの情報が、
いまや情報としては一番最後の3次、4次情報でしかないという事に気づいた世代が
離れていくのは当然の事だ。

それと同時に、新しいものを取得する価値観が大事であるという事を、視聴者に啓蒙して
来なかったメディアの自滅というのが現状である。

これは、経済的に見ても行き詰まるのは当然で、結局のところ資本主義経済の中では
新しいものを供給し続けなければならない。
今までのもので満足するというのは、経済も停滞するということと一緒だ。
では、どうすれば新しいものに興味を持ち、それを取得しようという気持ちにさせるか。
それは、知らない事を知るという価値観の向上とそれを良しとする文化水準の向上を
目指す事だろう。
日本は今、物質経済から精神経済へ移行しなければならない帰路に立たされている。
それを理解しなければ、このデフレ経済も脱却できないと思うのだ。

挑戦できないTVの構造では、ネットメディアには対抗出来なくなるだろう。
即効性という分野では、もう太刀打ちできない。
ならば、TVはもっと拘った視点での番組コンテンツの製作しかないだろう。
それこそ、それぞれのTV局が独自の視点で一つのニュースを掘り下げるというものを
作って然るべきではないだろうか。
既に、TVのニュースは公正明大とは言いがたい。建前としてしか認識できない。
実際には製作側の意図的な情報操作とも言える内容を、それぞれが流している。
であるなら、始めからそれをうたった上で、他局とは違ったものを表現してほしい。

まあ、ニュースについては事実というものが根底にあるので、憶測や希望を
入れたものが成り立つというのも問題ではあるが。

少なくとも、ドラマやバラエティなどには、まだまだ改善の余地はあるだろう。
視聴率などどいう最早旧態依然とした価値観に振り回される事無く、新しい事に
チャレンジしていただきたい。

at 19:18, chibaP, こんな世の中ナナメ斬り!

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万引き被害 年670億円 振り込め詐欺の11倍(毎日新聞)

このところ、個人的な理由により、一時活動停滞という状況でありました。

その状況もいくぶん緩和できてきたかということで、暫く滞っていたこのブログも再開
していきたいと思います。

さて、記事については一ヶ月前のこととなりますが、いまさら即効性のある話題でもなさそう
なので、この「万引き被害」というものを取り上げてみたいと思います。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091024-00000013-maip-soci

実はこの問題については、今更といった感がある。
私としては以前書店を経営していたという経緯があるだけに、実態は手にとるように解る。
既に、2000年頃以前から、万引きという行為が個人の突発的な欲求という所だけではなく、
組織的窃盗犯罪という側面が現れてきていた。
もちろん個人でも、それが転売目的としての窃盗犯罪という行為に変化してきた。

実はそれ以前に、ブックオフの台頭による古本の買取制度の変化が大きな影響を
与えてしまった事も無視できない。

万引きという言葉自体が、個人の出来心的な行為を指していた時代であれば
それは現場での当事者による話し合いで解決できた部分もあったことだろう。
しかし、現在の万引きという行為は、もはや窃盗としか言いようがないものだ。
明らかに転売して金銭に代えるという目的は、万引きという言葉のもつ意味合いとは
もはやかけ離れているとしか言えない。

このような報道は、もう10年にわたって同じ事を言っているだけなのだ。
対策を講じていると言いながら、やっていることはただ管理体制を強化
しているということだけ。

そこで言いたいのは、まず「万引き」という言葉を使うのを止める事。
メディアがいつまで経っても万引きというから、なんとなく重大な犯罪という
意識を持てなくなるのだ。
被害という事実を見れば、宝石店で10点総額100万を盗まれた、というニュース
があったとしたら、それを万引きという意識で捉えられるかどうか。
それが書店で10冊2万円の被害と言った時に、被害金額の多寡によって
犯罪の重大さが違うとでもいうのか。
利益率を考えたら、書店の2万は宝石店のそれと、それほど変わらないかも
しれないというのに。

リサイクル商売を非難するつもりは毛頭ないのだが、一度そういう流れが
出来てしまったことは、簡単には改善できないところだろう。
むやみな買取というところに規制が出来たことは認めるが、かえって
その為に量を捌く事で利益を得ようとする方向に犯罪が助長されて
しまったというのが、現状にあるのではないだろうか。

いずれにせよ、簡単に解決できる問題ではない。
まずは「万引き」という言葉を”個人の所有欲を満たす行為で行った
窃盗であり、転売するという意識を持たない行為”に限定するという
定義を提唱したい。

at 03:15, chibaP, こんな世の中ナナメ斬り!

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8月20日配信【Billboardも雑誌に見切り】 ネタの考察

 ライブ配信「花壱ちゃんネル」での一コーナー「こんな世の中ナナメ斬り!」での
ネタについて考察、第2幕。

今回の【Billboardも雑誌に見切り】というネタは、副題に -成功の方程式が通用しなく
なった米音楽業界- とあるもので、音楽雑誌と読者層の乖離による影響についてである。

しかしながら、これは音楽業界に限った事ではなく、情報を扱う紙媒体全体に於いて
言えることだ。
これは私自身が書店という現場を体感してきた中で、インターネットの台頭と共に
情報媒体としての雑誌類が淘汰されていく危機を感じていた事が現実に起こって
来たことの現れである。

それまで、あらゆる物の情報源として雑誌類(もしくは紙媒体)は不動の地位を
保ってきた。それがネットという情報源が現れたことによって、単に情報だけを
入手するという目的に絞れば、ネットの方が簡単である事に気づいた。
欲しい情報だけが必要とするなら、情報検索という手段でより簡潔に
情報を取得できる方が便利であるからだ。

その点雑誌というのは、本来の目的である情報の他に、今は全く必要では
無いであろう情報も同列に列挙してある。一冊の雑誌の中で、目的の情報を
探すには、その雑誌内でサーチするという手順が必要になるわけだ。
今まではそれが当たり前であった。

旅行雑誌を例に挙げてみると分りやすい。
目的地が決まっているなら、その土地のガイドブックを購入する。
しかし、殆んどの括りが自分の目的地よりも広範囲であるために、
全く立ち寄る事のない所の情報までその中には載っている。

はたして、ここでその要らない情報分には価値がないのか。
必要な部分だけを切り取って、その分の対価だけを支払えば事足りる、
というふうに考えるかどうか。

更に言えば、現実に起こっていた話であるが、
100円で買える求人誌を立ち読みし、自分の希望する求人の連絡先を
その場で携帯電話にメモっているというのも多々あった。
確かに、自分の求める情報だけあればいいという考えも分らなくはない。
それにしても、たかだか100円、缶コーヒーよりも安いという求人誌を
買わずに済ませるという行為はいかがなものか。

ちょっと話がそれた。
目的のハッキリした情報を取得するには、確かにネットは便利である。
検索という手段は、自分の欲求を満たす情報を最短の速度で手に入れる
事ができるツールであるのは否定できない。
しかし、雑誌の位置はもっと違う処にあったのではないか?
確かにネット検索は、知りたい情報にピンポイントで切り込んでいくことが出来る。
より深い情報を探すということに掛けては、非常に便利であるだろう。
その点で雑誌は、もっと俯瞰的な情報形態であるといえる。
一冊の雑誌は、それ自体で一つの括りであることには違いない。
しかし、そこに内包される情報は他者が選択した情報の束である。
大きな括りの中では、自分の興味外のものであったり、必要としないもの
であったりするであろうが、少なくともそれを取得選択すると言う行為は
自分自身なのだ。
つまりサーチは自分自身が行っているというところに、大きな違いがあると
思うのである。

今ここで”ひとつの括り”と言ったが、この括りの大きさ、ファジーさが雑誌の
本質だったのではないかと思う。(ファジーって言葉も無くなった気がする)
自分が求める情報を得ることは、一つの快感であり、それが括りとするならば、
自分の括りの中に居ることは楽なこととなるのだろう。

括りが小さくなればなる程、それは自分自身の自己満足になっていく。
サーチの先にはなんとなくそんな危険が孕んでいるような気がしてならない。

今は何故かカテゴリーの細分化が進んでしまい、大枠のジャンルであった
ものが、それこそ小さな括りで縛られていく。
人間は人それぞれであるから、大きな枠内で何となく違うなと感じていた
人もいたことだろう。
それが自分の欲求にマッチしたものを得る為に、より細分化したジャンルに
意味づけをしているのだとしたら、それは括りと同じことではないだろうか。

必要のない情報は、排他するという感覚であるとしたら、俯瞰で情報を扱う
雑誌は必要ないという意識になるのもうなずける。

それでも、物事を俯瞰で見る事が本当は重要なのではないだろうか。
車のハンドルに遊びがあるように、一見無駄でもそれが無いと大事に至るという
こともあるだろう。
いらないものは、排除するというのではなく、一度自分の中を通して取得選択
するという行為が、より情報を有益に使うための方法ではないだろうか。
自分自身をフィルターとすることで、自身を鍛えることができる。
無菌培養では弱くなってしまうという事と同じなのではないかと思えるのである。

雑誌と音楽業界の話であったのが、だいぶ方向がずれた気がする。
ただ、雑誌という媒体とネットという情報源は同じ情報を扱うものでも
その位置においては全く違うという事だ。
それを踏まえて、情報を取得する我々がどのように活用するかという問題でも
あると思う。
本当は、情報の価値というものを、発信者、媒体の作り手、購読者、受け取り手
それぞれが考えなければならない処に来ているのだと思うのである。


at 17:10, chibaP, こんな世の中ナナメ斬り!

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ネット配信花壱ちゃんネル、未公開ネタを考察

 本来、花壱レコードの歩みを記録するという趣旨で始めたブログであるが、
このところ、表立った活動が停滞しているということもあり、このブログ更新も
かなり散発な状況となってしまった。
 現状では、唯一花壱ちゃんネルというスティッカムでのライブ配信が、
主な活動となっているが、当初の音楽をネタにしてトークするという企画が
著作権の絡みもあり、あまり大っぴらに出来ずにいた。
 それで、日々のニュースなどから拾った話題についてトークをするという企画が
メインとなって、既に38回を迎えるまでになった。
 現在隔週というスパンでの配信であるが、なんと1年半以上が経過している。

 当初はライブ配信だけだったのを、ポッドキャストという形にしてプールした。
 これも設置してから、この9月には1年が経つ。そうしてみると、本当に一年は
早いものだと思う。
 さて、このポッドキャストはココログのポッドキャスティングJuiceというランキング
サイトに登録してあり、現在では当番組の「花壱ちゃんネル」登録者数が600を
越えたところである。
 少なくとも600人が登録のボタンを押してくれたというのは、有り難いことである。

 この数字も何かしら番組に面白みを感じていただけたという証であると、好意的に
受け止めさせていただきたい。と、そうは言っても中身がゆるゆるトークなので、
場合によってはメインの企画となるニュースネタ「こんな世の中ナナメ斬り!」が
ワンテーマしか話せていないなどの事態だったりするわけで、はたしてホントに
これで良いのかいな、とも思ってしまうのもままあったりする。

 というわけで、やっと本題。
 ネタとして取り上げたけれど、話を出来なかったテーマについて書いてみるのも
一興かな、と。
 残念ながらトークというわけではないので、私の個人的見解という立場からの発言
になってしまうところだけれど。

 (閑話休題)------------
 ただ今レス・ポール氏が死去というRSSのフラグが立った。
 あらあ、時代を席巻した偉大なギターを生み出した方がお亡くなりになってしまった。
 彼が居なかったら、Zeppelinも違ったものになってたかもしれないし、音楽全体の
 サウンドも違ったものになっていたかもしれない。
 合掌
 ------------------------------

 再開
 今回8月6日の配信で残った話題から、
「ニコニコ動画が普通のテレビ局になってしまった日」
というのを取り上げてみよう。

まず、記事の内容はというと、7月30日にニコニコ動画が12時間連続生放送配信を
行ったということ。
更に、7月30日付けの産経新聞テレビ欄に、このニコ動の番組表が載ったこと。
まあ、これは広告ということなんだろうが。

そもそも、ニコ動の存在意義がTVのアンチテーゼとするなら、こんなTV寄りの
番組内容に意味はあるのかどうか?
TVがつまらないという理由からニコ動などに流れているリスナーにとっては
TVの手法を取り入れる事は逆効果ではないのか?

このところメディア論に終始している花壱ちゃんネルトークであるので、
TVについての考察も取り入れた上で語ってみたい。
TVの衰退が、コンテンツの質の低下というのも一つの原因だろう。
不景気のせいとするのは簡単だが、スポンサーが付かないということは
予算が削減されるということ。
お金が無ければ、良いものも出来ないというのは道理で、昨今の芸人志向の
TV番組製作というのは、まったくもって予算の少なさを露呈しているとしか
言いようが無い。
本来予算が無いなら、頭を使わなければならないのが道理であるはずだが、
どうやらそのアイデアを生み出す器が枯渇してしまったのではないだろうか。
メディアもバブルの洗礼を受けたということであり、ただ単に豪華な装飾で
視聴率を上げてきた手法は終わりを告げたということだ。
もうひとつ、メディアが一方的に押し付けてきた情報に対しての疑問と
選択支の拡大による、パーソナルな楽しみ方の自由選択。
情報取得の方法はネットが普及した現在では、個人が触れる情報量は10年前の
何十倍というものになっている
TVやラジオは一方向でしかなかった訳で、先の番組表などはまさにその典型だ。
番組表を見て、リアルタイムでなければ聴取出来ない。

そこに、いつでもどこでも自分の好きな時に見られるというメディアが現れた、
というのが第一の転換となっているだろう。
更に、コンテンツに関しても、自分で選べること。また、自分も参加できる事。
このあたりがニコ動の受ける根幹であり、自らが楽しむというメディアとして
支持されていると考えられる。

ただ、コンテンツの質という部分を考えるなら、ニコ動のコンテンツがはたして
質の面でもTVを凌駕するのかというと、それはありえない。
質の良いものを作るには、やはりはかりしれない労力が必要となる。
その点はTVが培ってきた技術に勝るものは無いだろう。
だからこそ、TVはもっと質の高い十分練りつくされたコンテンツで勝負すべき
だし、かたやニコ動というのは、斬新なアイデアを拠り所としなければ成立しない
メディアなのではと思うのである。

at 01:57, chibaP, こんな世の中ナナメ斬り!

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いきなり ”ネットと経済活動”

  だいぶご無沙汰の書き込み更新ということで、何を書くべきかという葛藤からのスタートであることを一つ言い訳がましく言っておきます。

 実際、She'z_Kの活動としては、相も変わらず「花壱ちゃんネル」というネットライブ配信を隔週で行っている以外には、これといって進展なし。
 しかしながら、この「花壱ちゃんネル」のポッドキャスト番組に関しては、聴取登録者数が月次80名を越えるという、ありがたい事態となっております。
 多少は認知されてきたという実感もありつつ、トークが本来のフィールドワークではないというところも痛し痒しという次第で・・・。

 とまあそんな中で、このところメディア論とかを色々と語ったりしている訳ですが、自身の経験則的な部分も含め、改めてネットと経済についての持論を語ってみようかという、今回の趣旨であります。

 「花壱ちゃんネル」の中でも再三に渡って話をしていることではありますが、まずネット経済としてタダという意識はいかがなものか?
 つまり、ネット内のコンテンツがタダというのが当たり前という風潮(?)は、はたして正しいのか否か。
 これはネットに限らず、コンテンツつまり製作物に於いて、それを試聴、利用、所有するという一連の行為に於いて、無償という事が成り立つのかどうかという意味です。
 
 ここで経済という側面で話をするなら、経済活動というのは、金銭が循環しなければ成り立たないというのが本来のあり方であると思います。これは消費経済としての社会構造から考えれば、結局はモノを消費することで、また製造、販売、消費というサイクルが生まれ、その中からそれぞれに携わる職業人の対価が生まれる仕組であるからです。
 簡単に言えば、全ての事において、無から有を生み出したモノに対しては、タダという事はありえない。
 それを踏まえた上での、個別に対価報酬を交渉していくというのなら問題ない。
 それが、いつしかタダであることが良いことであるような、ネット環境を肯定する意識になってしまっているような処に、危惧を感じているのは不当であろうか?

 特に、日本人の潜在意識の中に、無形であるものに対して金銭的価値を適応することの忌避感覚があるのではと感じるふしがある。
 これはコンテンツ商売に関わる部分でもあるが、目に見える物質としてのモノが完成形としてなければ対価が生じない。それに関わったソフト面としてのアイデアであり、思考作業である、目に見えない部分の労力というものに対しての対価という意識が希薄であるように思えてならない。

 ネット社会は、情報というコンテンツが無尽蔵に吐き出される場である。その中で有益であるか、はたまた、全くのクズ情報であるかは、それこそ対価を支払うかどうかという選択肢で振り分けされるものであって、全てを一緒くたに等価とすることは、自らの選択コストを上げていることになってしまうのではなかろうか。

 もっと単純に考えれば、良いものが欲しければ、やはりお金を払うというのが、健全な経済社会であるということだろう。当たり前に考えてもタダでモノが手に入るとしたら、それは何か裏があるとしか思えないわけで、たとえ人からタダでモノを貰ったとしても、そこにはその人との関係性の中で価値観の等価交換が生じるからこそ、成立するもののはずである。

 つまり言いたいのは、ネット社会の経済モデルとして、収益を上げる事を否定しない。更に言えば、収益ありきでのネット活用を、利用者自身が提供していかないと、良いものは残らないし、ただの自己満足的ゴミ箱と化してしまってもいいのかという、問題をはらんではいまいか。
 そんな事を感じてしまう訳です。

 もちろ、色んな意味で過渡期であろうことは理解した上で、問題提起としての発言ではありますが、少なくとも、ものづくりという産業で生き残るしかない日本の中で、コンテンツという有形無形のモノに対して今一度考えてみても宜しくはないかというものでありました。

 最近はそんな話題で「花壱ちゃんネル」も盛り上がっております。
 興味のある方はポッドキャストで。

at 23:19, chibaP, 花壱日誌

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活動停滞気味?

 一ヶ月以上のごぶさたになりますが、そろそろ近況報告もせねばという次第で・・・

She'z_K自体は主に目立った活動をしていない現状だが、ネットライブ
「花壱ちゃんネル」は定期的に継続中。
当初生配信という位置付けで始まった番組だけれど、いかんせん映像の面白みは
全く無いといった内容なので、ならばポッドキャスト番組としてどうか、とスタンスを
スライドしてみた。
以前にも書いたが、今年に入ってから登録しているポッドキャスティングJuiceという
ココログがサポートしているランキングサイトでの登録者数が増加している。
現時点で登録者数240越えという、当初予想もしなかった伸び。

「花壱ちゃんネル」内でメディアに関してのニュースやらを取り上げてきたせいか、
ラジオやポッドキャストといった音声メディアの動向も気になるようになり、注意
していると、どうやらここにもメディア改変の流れが起こりつつあるようだ。

ちょっと前までは、ラジオの衰退と言われて、もちろん大手ラジオ番組が打ち切られる
というニュースはあったが、需要自体が衰退しているわけではなさそうである。
既存のラジオ放送というメディア形態の衰退であって、ラジオ(音声放送として)が
聞かれなくなったということでもなさそうだ。

時代はメディアの持ち運びに移行している。
テレビやラジオといった据え置き型の受像受信機の前で、定時にならないと聞けない
という状況からは脱していこうというのが、メディアの動きではないだろうか。
視聴者は、自分が見たいとき、聞きたい時に情報やコンテンツを見たり聞いたりしたい。
そういうことが可能になったのが携帯電話しかり、ミュージックプレイヤー、iPhoneを
筆頭としたメディアプレイヤーなどの存在だろう。

ウォークマンが音楽を街に連れ出したように、メディアプレイヤーが映像を外に
持ち出すデバイスとなっているのは明らかだ。
当初は、ビデオを電車の中でみるかぁ〜、なんて思ったりもしたけれど、
音楽を手軽に持ち運べて何処でも聴きたいと思った事を考えると、あながち
映像だってそう考えてもおかしくはない。
それがまだ一般的に感じられないのは、映像をデパイスに移行させる方法が
まだ手軽に行えないからである。

その点、カセットというデバイスは凄かった。メディアもコンパクト、プレイヤーも
小型、どちらも持ち運べて手間も要らない。
今、映像コンテンツであるDVDやBlu-rayを持ち運んで見ることは、出来なくは
ないが、さすがにちょっと煩わしい。
メディアプレイヤーなどに落とし込むのも、パソコンがないとダメだったり、
コピーや変換しなければならないという煩わしさは残る。

それを証明する事例としては、ニンテンドーDsを挙げてみるといい。
TVゲームだって、元々はTVの前でしか出来ないものだった。
大画面がどうとか、映像がキレイとかを謳ってゲームや機材を宣伝しても
消費者が望んだのは、手軽に持ち運べ、どこでもゲームが出来る機械だった。
だからこそDsは爆発的なヒットとなったのだ。
もしかして、一家に一台ぐらいの普及率になったかもしれない。

ソニーのPSPでは、映画のコンテンツもパッケージで販売されているが、
普及率から考えると、Dsでそれをやったなら、映像メディアの売上げも
かなり違ってくるのではないだろうかと思う。

だいぶ話がそれたが、メディアは携帯メディアに移行しているということで、
視聴者数が減衰しているわけではないようだという事と、ラジオのコンテンツ
形態は、まだまだ試行の余地がありそうだという事。

「花壱ちゃんネル」がだいぶラジオ的ということで、色々試行錯誤の時期に
あったりするので、勉強中の期間だったかなというくだりでした。

というか、音楽やれよっ!ってことでもありますが・・・
その辺の企画もぼちぼちと。うにゃむにゃ・・・


at 16:29, chibaP, 花壱日誌

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メディアについて、ちょっと独り言

 このところライブ配信「花壱ちゃんネル」でメディア論などを
語ったりしている中で、ふと思ったりした事。

お笑いブーム自体はいいとして、ネタの短さはどうなんだろう。
Rカーペットなどの1分ネタが面白いと受け入れられてしまって
いるが、この流れは非情な消耗戦になるような気がする。

バブル後くらいから、コンテンツの消費サイクルがどんどん
短くなってきたように感じられる。
ベストセラーはロングセラーに繋がり、ミリオンとなっていたものが、
一時の盛り上がりだけで、持続しなくなってきた。

詳しく検証すれば、何か関連性は見つかるかもしれないが、
情報量の過多に伴い、消費サイクルが短くなっているのでは
ないだろうか。
95年をネット元年とした場合、それ以降からは個人が得られる
情報量は飛躍的に増大したことだろう。
一つの情報が行き渡る前に、次の情報が流れ込んでくる。
情報が新しいものが良しとされると、古くなった情報は過去に
追いやられて、振り返る暇もなくなっていく。

さてここで、前述のお笑いネタははたしてコンテンツなのか
情報なのか?
本来、コンテンツ(作品)の面白さを伝えるために情報が
あるはずなのに、コンテンツ自体が短縮化されてしまったら
それはもはや情報という括りで使い捨てられるのではないだろうか。

実際に、あの番組でやったネタは、同じ土俵の番組では2度と使えない。
視聴者がもうそれは古い情報としてインプットしてしまったからだ。
ネタが短くなることは、限りなく一発ギャグ化していくことで、結局は
飽きたら終わりということになる。
それを毎週やらなければならないというのは、消耗戦以外の
なにものでもない。
いや、もしかして見方を変えれば、この番組自体がお笑い情報番組
ということなのかもしれない。
一分間の最新ニュースをお届けするということなら、解らなくもない。
ただ、そうなった場合は、それぞれの芸人がもっとじっくり自分たちの
芸を披露出来る場所があって、そこに足を運んでもらうというもの、
もしくは、自己PRの場所と割り切っての宣伝活動というもの、
そういう明確な意識があっての事ならいいんだけど。

どうやら赤い絨毯もゴールデン進出が決まったようだが、
お笑い番組というカテゴリーで捉えているなら、たぶんまた早期打ち切り
という結果になりかねない。
現状の構成はすでに飽きてきた、と言えるからだ。
そして情報番組(ニュース)とするならば、だんぜんあ〇びき団の方が
その特性に近い。
見た事もない芸人が出てきて、ちょっとしか見られない、またはこんな
の居ていいのって人が出てくる、これはまさに情報番組だ。
だからそこにお客がいる必要もないし、採点する必要もない。

番組をコンテンツとするなら、ネタもちゃんとした作品であって欲しい
というのが、今の気持ちだ。
ただ面白い事をしているという一発ギャグだけを見たい訳じゃない。
芸としての作品を見たい。

音楽についても、最近はすぐにBESTアルバムを作るという風潮だ。
本来ならアーティストの想いを表現する為のアルバムであるから、
曲の構成、順番、歌詞などにもこだわりがあってのものだったはず。
それが一曲単位で売ることの容認は、結果的に切り売り商売になって
しまった。
もちろん、アルバムにせんが為に駄作も同梱しての製作という
アーティスト側の怠慢もあったのかもしれないが、アルバムの
切り売りとは一冊の作品集である画集の一ページ、または物語の一部を
破り取って売っている行為ではないのだろうか。

これも短縮することによって、コンテンツであったものを情報化して
消費してしまうという流れに通じないか。

つまり、情報は留まらないから身にならないんじゃないか。手間隙
かけて作り上げたものを、じっくり観賞することによって、人は何かを
感じ、そこからまた何かを自分の中で作り上げていく作業を行うはず。
そうして、感じる事、考える事、作る事で自己というものが出来上がって
くるものではないかと思う。
情報だけに踊らされる人間を作ってしまっては、人間自体が薄っぺらに
なりはしないだろうか、と危惧してしまうのだ。

なんとなく取りとめもなく、独り言でした。

at 15:19, chibaP, 花壱日誌

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ラジオというメディア

ちょっとラジオが気になっている。
ポッドキャスト番組をやっているというせいもあるが、最近のニュースでも
長寿ラジオ番組が打ち切りになったりとか、雑誌等で取り上げられたり
とか、ちょっと話題っぽいのだ。

ラジオの性質上、インターネットとはテレビより融和性がありそうで、
ネットに置き換えられるという意見もあるようだが、このまま本当に
衰退していってしまうものなのかどうか。

ただ、ラジオが他のメディアと違うのは、非常に”ながら”メディアで
あることだろう。映像メディアは、常に映像と正対していなければならず、
その間の時間は拘束される。
聞くだけというのは、何かをしながらという、ながら文化の象徴的位置で
あったはずだ。ラジオ世代なら分るだろう。

ともかく、ちょうどそのラジオ的番組としてライブ配信をしている
「花壱ちゃんネル」のポッドキャストが、ここに来て微妙な動きとなっている。
なぜか、視聴者登録数が急増。前回微増と書いたが、それ以降も登録数は
とどまらず、我々としては驚異的数字となってきた。

ホントに、なんで?

そんな経緯で、これはもっと真剣に考えんといかん、(いや、決して
いいかげんだったわけじゃなく)という訳になり、ラジオ自体を考える
という思考に到ったわけである。

思うこととしては、やはりラジオはちゃんとしゃべらなきゃダメだということ。
映像では、フリで面白いということも出来るが、聞くだけのメディアでは、
話が本当に面白くないと、意味が無い。
何を当たり前に!ということだろうが、やはりプロはそこが違うんだろうと
つくづく思う。そもそも話芸という言葉もあるのだから。
他愛もない話でも、面白く聞かせるには、テクニックもいるだろう。
また、本当に面白い、つまり興味深いという内容を、キチンと掘り下げて
話せるのかということも重要ではないか。
それに加え、自分たちのスタンスは何処にあるのか。
番組をやっていて、結果として盛り上がるのがメディア論であったりすることを
考えると、案外と自分たちの価値観もマイノリティーになってるかもしれない。
しかし、だからといって、多数派が正解ということも無いはずだ。
統一的意識に傾く事の方が、危険ではないのかという警笛を
鳴らすことも必要だろう。

と、そんな戦略会議を居酒屋(?)でやりながら、今後の可能性を探る
という見解になったのだった。

at 14:51, chibaP, 花壱日誌

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ポッドキャストの浸透率は?

 ライブ配信サイト、スティッカムでの番組「花壱ちゃんネル」を配信して
約1年が過ぎたということは、前回も書いたことだが、今年に入ってから
なぜかポッドキャスト試聴からの登録者数が微増している。

そもそも、Jazzユニット「She'z_K」のオリジナル曲を流すことで、名前と
曲を認知してもらおうという狙いでのスタートであったのだが、ライブ配信
であるところの映像としては、全く顔を出さずというかなり消極的な内容なので、
自らもラジオ的と公言していたものである。
世の中、YouTubeなどで映像が主流になりつつあるというのに、なぜ?
(この辺の押しの弱さが、今ひとつプロモーションの効果が出ない理由)

言い訳をするとしたら、”実は映像は難しい” ということか。
ただ映っていればいいんでしょうという、安易な映像は、どうしても陳腐に
見えてしまう。TVで映像を見慣れていると、ある程度番組として成立して
いるものであれば、やはりそれなりのクオリティが望まれるであろう、という
のが考えられるところだ。

そういうところもあって、結果としてラジオ的番組ということにはなっている
のだが、そうなるとどうやらポッドキャストの方が適合しているのかもしれない。

スティッカムでの配信時間は、木曜夜23:55〜25:20ぐらいと、深夜枠で
大体1時間30分のライブ配信だ。
実際、その時間でリアルタイムで見てもらうには、映像での面白さが欠如
している内容としては、どうなんだろうと言えなくもない。
聞ければいい内容というなら、本当にラジオで十分通用する。
そんな意味でも、ポッドキャストの方が視聴者の都合としては良いのだろう。

一つ問題があるとすれば、こちら側、つまり出演者のモチベーションか。
ライブ配信の醍醐味は、リアルタイムで視聴者が参加(チャット)出来る
ところであり、同時間を共有しての、まさしくライブ感覚で配信するところに
ある。現実に目の前で聞いている人がわかるのが、出演者側の緊張感
を高めることにもなり、モチベーションもアップする。
ところが、このままポッドキャストでの視聴者だけが増えていくと、
たぶん聞いていただいているであろう事を想定してしゃべる、という
ライブでありながら、録画収録番組制作ということになりかねない。
わざわざライブでやってる意味が薄れていくような感覚になると、
それはまたモチベーションにも影響してくるかもという危惧。

そういう事を思いつつも、それも視聴者数が増えてくればこその悩みで
あり、それは純粋にありがたいことと思う。
1年間続いてきた事はそれとして、まだ模索しながらの番組制作であるのも
確かであり、それこそ映像としてはどうするんだ、という問題も考慮しつつ
更に聞いてもらえる番組にはしたいと思う。

なんだかんだ言っても、聞いてもらえているという実感(数字でしかないけれど)
が一番ありがたいことです。

at 14:09, chibaP, 花壱日誌

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